てくてく明日香村
 
明日香と飛鳥のちがいは「明日香」は地名、「飛鳥」は地方名をさす言葉であり、地方名の「飛鳥」は大和平野の東南に位置する、飛鳥川流域から大和三山(畝傍山・天香具山・耳成山)に囲まれた地域を含む総称で、橿原市・桜井市の一部も飛鳥地方に含まれます。この明日香村を2002年来のイタリア旅行の仲間と散策してきました、また旅行仲間で地元の方の案内だったので明日香を存分に知ることが出来ました。 (2007.4.21)
 
◆ 石舞台 ◆
菊桃の咲く石舞台               菊桃の花
 
 
 
 
石舞台
イタリア旅行仲間と記念写真
 
 
 
入り口                 内部
  
 
入り口及び内部の写真からその大きさが如何に大きい推察出来ます、蘇我馬子(6世紀末〜7世紀前期)の墓と伝えられ我が国最大の方形分であり、岩の総重量は2300tにもなります。特に天井石は77tもあり当時の優れた土木技術がうかがわれます。石舞台の名の由来は一般に形状からとされていますが狐が女性に化けて踊ったとか旅芸人が舞台にして演じたという話もあります。
 
 
 
 高松塚 ◆
 
高松塚周辺の山桜
 
 
高松塚古墳、解体調査の覆いが施されています                  星宿の広場
  
 

覆いの中はどうなっているかは全く分かりません、中央左の階段横に本来の入り口が有ります夜に星宿(星座)の広場から高松塚の上空を眺めると北極星を中心に回る星座郡が見れ、石の配置が石室の星宿図をモチーフにしているとのことですがあまりピンと来ませんでした。
 
 
 
解体前の古墳外観                          調査速報看板
 
石室は土を層状に固め滑り止めにムシロを使ったと、説明されていました。
 
 
 
 
 
高松塚壁画館                 女子群像壁画(模写)
      
 
 
高松塚古墳より発見された石室内部の模型と、 古墳の出土品(模造)や壁画の模写を展示。国宝に指定されている側壁の男女人物像、四神、日月や天井部の星宿図が、鮮やかに再現され大変分かりやすく展示されています。高松塚古墳はお七世紀末から八世紀初頭にかけての、彩色壁画古墳です。昭和47年(1972)、橿原考古学研究所の 発掘調査で、古墳内部の石室に描かれた極彩色の壁画が発見され、一躍有名になりました。石室の規模は幅103cm、長さ265cm、高さ113cmで、既に盗掘された形跡があり、遺品は殆ど残っておらず被葬者についても多くの推測が出されましたが、未だ特定されていません。
 
 
 
◆ 甘樫丘 ◆
 
明日香村のほぼ中央に位置する標高148mの小高い丘で、現在は国営飛鳥歴史公園として整備されています。頂上からは明日香村内はもちろん、遠くは大和三山(畝傍・香具山・耳成)や葛城・金剛・二上・信貴山も展望できます。飛鳥時代には飛ぶ鳥を落とす勢いだった蘇我蝦夷・入鹿が、大化の改新で中大兄皇子や中臣鎌足に敗れるまで、その権勢を誇示するかのごとく大邸宅を構えていたとされています。
 
 
 
 
甘樫丘展望台
 
大和三山
 
畝傍
耳成
 
香具山
甘樫丘から眺めた大和三山 畝傍、耳成、香具山
 
 
 
◆ 飛鳥坐神社 ◆
 


 


 
 
飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ、と読みます)
境内には陰陽石が多数置かれ、子授けの神として信仰される。
おんだ祭は、五穀豊穣と子授けを祈願する祭として有名です。
 
 
 
◆ 飛鳥寺 ◆
 

596年蘇我馬子が建てた日本最古の寺院で、「法(ほう)興寺(こうじ)・元興寺(がんこうじ)」と呼ばれていました。また大官大寺・薬師寺・川原寺とともに「飛鳥の四大寺」とも呼ばれていたそうです。崇仏派の蘇我氏がそれに反対する物部氏を滅ぼし、最先端の技術を持って造営したとされ、当時は東西210m、南北320メートルにも及ぶ伽藍配置をもつ大寺院だったことが分かっています。本尊は金銅釈迦如来坐像(重要文化財)で飛鳥大仏として親しまれています。後の大化の改新の主役、中大兄皇子と中臣鎌足が知り合ったのも、飛鳥寺で行なわれた蹴鞠の会であったそうです。また蘇我入鹿を倒した後もこの飛鳥寺に立てこもり、蘇我氏の反撃に備えたということです
 
 
 
 
 
 
 

本尊である金銅釈迦 如来坐像(通称丈六仏または飛鳥大仏)は鞍作止利によるもので本堂は火災により焼失したが奇跡的に仏像だけが残り雨ざらし等で当時の復元図に比べ痛々しい状況でした。(写真撮影は許されています)
 
 
◆ 蘇我入鹿の首塚 ◆

〈645年〉大化の改新において中大兄皇子らに敗れ、切り落とされた蘇我入鹿の首が、祀られています。伝板蓋宮で殺された入鹿の首塚がなぜ飛鳥寺の西にあるのかは未だはっきりしていませんが、切り落とされた首だけが飛鳥寺に立てこもった中大兄皇子らを追いかけて飛んで来てここに落ちたとか様々な伝説が残されています。
 
 
 
首塚の後方は甘樫丘、塚自体は江戸時代に作らてたものです。
 
 
 
 
 
 
 
◆ 酒船石遺跡 ◆

亀形石造物と酒船石と合わせて酒船石遺跡と呼ばれ亀形石造物は平成12年に道路を作る工事で遺跡が発見されたものです。遺構は石造物を中心に、石敷や階段状の石垣によって立体的な空間を作り出している。これは『日本書紀』斉明二年の条に記された「宮の東の山に石を累(かさ)ねて垣とす。」に符合することから大土木工事を好んだ女帝斉明天皇の離宮『両槻宮』ではないかと推定されています。
 
 
 
亀形石造物
 
右方の砂岩から湧き水を樋で小判型石槽へ、さらに亀型石槽へと導水する構造で祭祀空間と想定されています。
 
 
 
酒船石
 

溝が掘られた長さ約5.3m、幅約2.3mのこの謎の巨石は、庭園に水を引く為のものだとか、酒や油を絞るのに用いられたとか、最近発見された亀形石造物と併せてこの辺一帯が祭祀の場であったのでは等の諸説があります。この石は本来はもっと大きいものであったが石の両側を割って高取城の石垣に使われたそうで、石の両側に割った時のくさび痕が残っています、元の形が分かれれば謎も解明されるでしょう。
 
 
 
◆ 亀石 ◆

長さ3.6m、幅2.1m、高さ1.8mの明日香村を代表する石像物で平安時代頃より亀石の名称で親しまれていたそうです。一体いつだれが何のために作ったのかは定かではありませんが、耕地を碁盤目に区画する方式の境界、川原寺の境界を示す説など多数あります。 伝説では大和が湖であったころ、湖の対岸の当麻(たいま)とここ川原の間にケンカが起り、長いケンカのすえ湖の水を当麻に取られてしまった、湖にすんでいた沢山の亀は死んでしまった。何年か後、亀を哀れに思った村人達は亀の形を石に刻み供養したそうである。今、亀は南西を向いているがもし西を向き当麻をにらみつけたら大和盆地は泥沼になるという伝説が残されています。
 
 
亀石の周囲には人家も建ち並んでいて、おもむきの無さ感じました。
 
 
◆ 茶粥懐石の神籬 ◆
昼食は茶粥懐石の神籬(ヒモロギ)でいただきました。この店は飛鳥坐神社のそばにあり明治時代の大和民家を生かしたつくりで、懐石料理の他、民芸ギャラリーではトンボ玉が展示さています。懐石料理は完全予約制で、最初に朱塗りの杯で御神酒をいただきついで季節の食材を 目にも美しく調理した懐石料理をいただきました。メニュは縁高(口取・煮物・焼物)、お椀、お造り、茶碗蒸し、揚げ物、茶粥、香の物、デザートで量質とも申し分のないご馳走でし た。中でも絶品は珍しい鯨のお刺身でした。
 
神籬                            懐石料理
 
 
 
茶粥と手書きの万葉歌のマット               花イカダ(雄花)
  
 
お膳には、店主のお父さんが手書きした万葉歌のマットが敷いてあります。一枚一枚異なる歌を達筆にしたためてあり心温まる思いがしました。箸置きには季節の草花の「花イカダ」があしらわれていました(葉っぱの真ん中に小さな蕊があって、船の帆に見立てた命名)。
 
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