ヨルダンの旅景 Jordan
 
 

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4月18日ドーハで乗り継いで午後ヨルダン・アンマンに到着しペトラに向かう。19日砂岩に囲まれたナバタイ王国ペトラ遺跡を観光。20日モザイクの街マバタとモーゼ終焉の地ネボ山を観光。次いで死海で浮遊体験をする。21日ローマ時代の遺跡ジェラッシュを観光、午後国境を越えてシリアへ。
 
 
 

 
 
 
ペトラ

ヨルダンの中南部にあるペトラは、紀元前2世紀ごろに遊牧民ナバタイ人が築いた岩山都市です。アラビア、エジプト、シリア、フェニキアなどの交易の要衝として1世紀初頭に最盛期を迎えますが、106年にローマ帝国によって征服されました。建造物や彫刻群に古代東方文化とヘレニズム文化との融合が見られる、世界でも最も有名な考古学遺跡の一つです。
ペトラの入口は、谷底を這うような狭い岩の回廊が1.5キロも続きます。それを抜けると突然、巨大な建造物が現れます。岩をくりぬいて築かれた高さ39メートルの「エル・ハズネ 王の宝物殿」と呼ばれる建造物で、見事な円柱や細かな装飾も全て岩を彫ったものです。女神の彫刻があり、ペトラをさまざまな文明が行き交ったことを物語っています。
ナバタイ人はもともと遊牧民でしたが、やがて隊商を組んで、アラビア半島やインドの香料を地中海やエジプトへ運ぶようになり、交易によって富を蓄えていきました。「王宝物殿」をさらに奥に進むと、王家の墳墓が現れます。その数はおよそ500にも及大の建造物は標高1000メートルの山頂にあるエル・ディルで、太陽神を祀っていたと考えられています。栄華を誇ったペトラも、106年にローマ帝国によって征服されたことによりその歴史を閉じます。
 
 
撮影2010.4.18
 
 
バラ色の都市ペトラ
petra2a
↑シークからアル・ハズネと画面が変化します
 
 

 
 
ペトラ遺跡を巡る・・・動画
 
 
 
 

 
ビジター・センター
ペトラ観光のスタート点、ビジター・センターは遺跡入口の800m手前にある。アブドラ現国王(右)とその父のフセイン1世前国王の巨大な写真が誇らしげに飾られていて、目を引く。この国の正式名称はヨルダン・ハシェミット王国、ハシェミットとはイスラームの創始者ムハンマドの曽祖父ハーシムの子孫の家系でハーシム家の王国ヨルダンを意味するそうです。
 
 
 
 
入場料が21JD(約3200円)
 
 
 
 
この周辺は土産屋が集まっている、こんな衣装が似合う観光客は皆無、観光客は高齢者が圧倒的です。
 
 
 
馬に乗ってシーク入口まで向かう、馬の代金は入場料に込まれているが馬方にチップ3$が必要、揺れながらビデオ撮影を敢行、いい映像が撮れました。気分はインディ・ジョーンズ。
 
 
 
 
 
 
 

 
シーク入口に到着
(赤丸)は放流用トンネル:シークの入り口はナバテア人がシークに流れ込む水を阻止するためここにダムを造り、水道水をシークに引き込むと共に、洪水を放流させるために右側の岩を掘ってトンネルを作っていた(赤丸)。ペトラの都はここより低い盆地にあるため水が下流こ向かうためです。ペトラは2000年前からこのような高度の治水技術を持っていたのです。左手がシークへの入り口でここから高さ60-100mの断崖に挟まれた道に入って行きます。
 
 
 
放流用のトンネルとイラスト
ここは雨量が少ない沙漠のために、水の供給のために貯水地を造り、うまく勾配を利用して素焼きの土管で水をペトラの都まで送った。その技術の痕跡が生々しくシークの両サイドに見られる。
 
 
 
 
THE SIQと書かれた標識、鐘と鞭が吊り下がっている。
 
 

 
 
シークのスタート
ここから全長1.5kmのシークが始まる
自然の力で出来た道、柔らかな地質部分だけが水で浸食され峡谷が出来た。
 
 
 
時間帯により色彩が変化するシーク、朝方が美しい。
 
 

 
 
 
礼拝所
      
礼拝所、棒状の物体はナバテア人が信仰した神「ドウシャラ神」
 
 
 
 
 

 
左側の溝は灌漑用、右側は生活用の水路
 
 
 
 
 
 
ここは雨量が少ない沙漠なので水の供給のために貯水地を造り、うまく勾配を利用して素焼きの土管で水をペトラの都まで送った。その技術の痕跡が生々しくシクの両サイドに見られる。約1mの高さの位置に見える溝が水路。
 
 
 

 
シークの表情
  
多彩な表情のシーク
 
 
 

 
 
ラクダを引くナバテア人の像
 
ラクダを引くナバテア人の像が灌漑用水路をまたいでいる。1997年アメリカ人が発見したものでそれまで誰も気づかなかった遺跡。ラクダの脚は無いが丸い腹と四つヒズメがはっきり見える、ナバテア人の足のサンダルもハッキリ見える。                      
 
 
 

 
エル・ハズネ
 
エル・ハズネは、高さ39m、幅30m。美しく精巧でかつ巨大さに驚愕しました、はるばるこれを見たくて来たのです。ギリシャ神殿によく似た下部の6本の円柱や三角の破風は、ヘレニズム建築の影響です。光の当たり方によって、1日50色のバラ色に変化するというエル・ハズネ。最上部にある丸い壷には、宝物が入っていると信じられ、ベドウインはこれを「エル・ハズネ(宝物)」と呼んだ。ベドウインが壺の中の宝物を取りだそうと銃撃した跡があります。
 
  
 
エル・ハズネ                      観光ポリス
 
 
 
      
ナバテアの象徴の壺は銃で撃たれて欠けています。  内部の部屋は空で、祭壇だった
 
 
 
背後の隙間はシークから来た道、こんな狭い所を抜けて来たのです、観光客は壁際に寄っています、全景をカメラに収めたいためです。エル・ハズネまで40m程度の狭い空間です。
 
 
 
エル・ハズネの2階部の彫刻が欠けていて女神像が不鮮明なので、分りやすい絵を抜粋しました。この絵は現地の集合写真のカバーに描かれていたもの(↓写真)をトリミングしました。
この絵の作者はデビッド・ロバーツDavid Robertsで、1796年スコットランドで生まれ、後にイギリスに移住。そして彼が42歳の年(1838年)、中東旅行を企てます。1839年の当時の風景を描きました。
 
 
 
 
 
 
 
女神像(デビッド・ロバーツ作のエル・ハズネの風景より)
ギリシャやエジプトの神話がモチーフになっています「A アマゾネス(ギリシャ神話)、 Bニケ(ギリシャ)、Cイシス(エジプト)」
描かれた1839年当時は彫刻は美しい姿を留めていました、その後盗賊の銃撃で傷ついてしまったのです。
 
 
 
 
 

 
エル・ハズネは、一体何なのか
2010/05/20 18:55〜19:35 NHK教育 地球ドラマチック「シリーズ古代都市 ペトラ〜砂漠のバラ色の古都」の放映では「霊廟」と説明されていました。それによると1812年の発見以来、2003年の発掘調査で半地下の墓が発見されナバテア王アレタス4世の家族の墓だと判明しています(↓写真)。
 
 
鉄格子の下に階段と小部屋(墓)が(写真↓)あります
 
 
 
 
  
半地下部の階段と小部屋        イメージ図
エル・ハズネの地表が洪水で押し寄せた土砂に埋まり今は地下になっています。 エル・ハズネの手前300m辺りから道の敷石が埋もれていることからこの地下の発見のヒントになったのです。
 
 
 
 

 
水道施設
エル・ハズネを過ぎたファサードの道あたりでは見上げる高さに水道が引かれている、それはシーク入口から比べ標高が下がってきているためで流れ勾配を勘案した高さです。水圧で素焼きの土管が割れない様上に空気層を作るゆるやかな勾配設計をしたのです。
 
 
 
素焼きの土管を繋いだ水道管、接続部にはシリカが使われ水漏れを防いでる。
 
 
 
 

 
 
 
砂絵屋
 
色の異なる砂と長いジョウゴと細い針のようなものを使って器用に形や字を作っていく、ビンのキャップはないが口元の砂をボンドで固めるので絵は変形しない、名前を入れてもらって10$だった、余談だがジェラッシュでは名前無で1$だった。
 
 
 

 
王家の墓
 
 
宮殿の墓               コリントの墓
 
 
 
 
 
「壷の墓」内部は岩の自然のままの色のマーブル調で美しい。
 
 
 
 
 
王家の墓
宮殿の墓 コリントの墓  シルクの墓          壷の墓
 
ペトラの中心部から見た王家の墓、この中心部で3万人が生活していた。
 
 

 
ローマ円形劇場
 
ローマ円形劇場
33段の階段席は赤味がっかた砂岩を掘って造られ継ぎ目が無いのが特徴。右はロバに乗って笑顔をみせるお嬢さん。
 
 
 

 
大寺院
 
 
大寺院と呼んでいるが本当の用途は定かでない
 
 
 

 
列柱通
 
列柱通 殆ど柱が無い列柱通り、右は当時の想定図
 
 
 
  
 
カスール・アル・ビント            凱旋門
后の神殿という意味でドシャラ神を祀った神殿である。
 
 
 

 
エド・ディルへ向かう
 
石の階段は700段とか900段と諸説あるが思った以上に歩きやすく苦もなく登れた。下山する人やロバに道をゆずったり下界を眺めながらの登山だったので40分を所要した。高さにして僅か200m位で心配することは無かったのです。
 
 
 
エド・ディル
エド・ディルとは修道院の意味で、修道院として使われていたが、かつてはラベル2世の神殿いわれている。高さ40m、幅50mでアル・ハズネより大きい。
 
 
 
  
 
先端には9mもあるナバテアの象徴である壺が乗っている。
 
 
 
怖い看板がある、この先は何が?
 
 
 
 
これが看板にある「この世の果て」なのだろうか
 
 
 
 

 
ペトラの子供
 
 
 
地元の子供が裸足で石の階段を足取り軽く登り、エド・ディルの頂上の遺跡で遊んでいました。
 
 
 
 
 

 
リトルペトラを巡る
リトルペトラに行く道中、この辺りはペトラの裏手
 
 
 
 
谷あいにペトラの遺跡が見える
 
 
 
 
あまり観光客のいないリトルペトラ、名前のとうり遺跡がコンパクト
 
 
 
 
 
右はミニシーク、この間を通り抜ける。
 
 
 
地下には深い水貯めが掘られれいる。水を大事にし祭事には水を用いていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天井にはペトラで初めて見たのフレスコ画ある、あまり管理されていないのが気がかり。
 
 
 
 

 
ペトラの町の全貌
 
標高1253mの展望台からみたペトラのホテルや住宅街、この左下の道がペトラ遺跡の入口です。関空から飛行機とバスで24時間もかけてやってきたこの地は、本当に遠い国です。町全体が高地にありペトラ遺跡は町より低地にあることがわかります。
 
 
 
左端がペトラの入り口のビジターセンター
 
 
 
標高1253mの展望台から前記の町の左手にペトラ遺跡が有ります、右下がビジターセンター、中央の裂け目がシーク、その裏側にペトラの都や王家の墓がある盆地。これらのペトラ遺跡は800〜900mの低いところにある。(画像をclickすると拡大します)
 
 
 

 
 
撮影2010.4.19
モーゼの泉
 
この建物の中にモーゼ泉がある
 
ワディ・ムーサには、モーセが杖で岩を打つと水が湧き出したという「アイン・ムーサ=モーセの泉」と呼ばれる伝説の泉がある。この辺りからシークの入り口付近にあるダムに水が送られ、さらにシークの両側に設置された素焼きの土管を通してペトラの都と結んでいる。この高度な水利システムによって砂漠の中で水を確保し、3万人の生活を支えることに成功した。
 
 
 

ペトラのホテル
 
アルヒダブ ホテル(AL HIDAB HOTEL)
外見は普通だが部屋が悪く皆さん不満続出
 
 
 

ヨルダンのバス
このバスでヨルダン内600km移動、故障もなく快調に走った
 
 

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