シリアの旅景1
 

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更新2011.2.6
4月20日午後シリアに入りボスラのローマ時代の円形劇場を観光、次いで隊商都市パルミラに向かう。
21日パルミラを観光し午後150km離れた十字軍の要塞クラック・デ・シュバリエを観光、22日ダマスカス市内を観光。
 

シリア国境ダルア
4月20日ヨルダンのジュラッシュを12:20に出発し国境のラムザには13:05到着。バスの運転手が国境の役人と友人だったので出国手続がわずか30分程で済む。この間質素な免税店でビールを買ったが、おどろくことにレストランだと7$するビールがロング缶が1本でわずか1$でした。陸続きの国境とはおもしろいもので、ヨルダンを出て緩衝地帯を4キロも走ってやっとシリアの国境ゲートのあるダルア入ります。入国手続きを終えたのは14:45分だ。この後1時間ほど走ったところのボスラという町に到着、ここにはローマ時代の円形劇場にあり規模は中東一で極めて保存状態が良く、外見は要塞です。
撮影2010.4.20
 
シリヤ国境ゲート
 
 
 
ダルアの街
シリア国境の街ダルア
 
 
 
 
シリア国境の街ダルア
 
 
 

 
ボスラ
ボスラの町はヨルダンとの国境の町ダルアから東へ40kmにある、ここは世界で最も完全な姿で残る巨大な
ローマ劇場が有る。紀元前1世紀からぺトラを首都とするナバタイ王国の交易の拠点として成長したボスラは、106年にローマ統治下に入るとアラビア属州の州都となり、ヨルダンヘと続くトラヤヌス街道の起点としてデカポリス(十都市同盟〉の一員となるなど繁栄した。さらにシヤハパ出身のフイリップス・アラブが皇帝となると、巨大なメトロポリタンへと発展した。
 
                                 
ローマ時代の円形劇場
2世紀後半に造られたこの劇場は幅102mあり、37段の客席には6000人が着席でき、さらに3000人分の立席が
あったという。7世紀この劇場をすっぽりと高い塀で囲んで十字軍と対戦するための城塞に改造した。城壁
の上からはボスラの街がよく見える。内部には広い通路が設けられており、一部は民俗博物館となっている。
 
                                           
 
劇場内部通路
入場口から静まり返った回廊の階段を上ると、突然視界が開け巨大な劇場が現れる
 
 
 
大劇場
 
 
 
 
大劇場
1985年6月に日本・シリア友好協会主催の音楽祭で北島三郎がここで「与作」を歌ったそうです。
音の響きが良く我らツアー客一行も さくらさくら を合唱していました。
 
 
   
さくらさくら を合唱する我らツアー客一行
 
 
 
 
城塞を出て北側に回ると、ローマ時代の遺跡がそのまま残っている。低い基盤に復元された列柱
が並ぶ神殿を過ぎると、カリベと呼ばれる片方が円柱、片方が家から延びる壁がある
これは2世紀にボスラの王が娘を死なせないように願をかけたとのこと,今もこの遺跡の中に住民が住んでいる。
 
 
モスク
劇場から眺めたボスラの市街
 
 
 

 
パルミラ
 
4月20日シリアのボスラを16:00に出発パルミラまで走ること400KM 5時間、ダマスカスを抜けて真っ暗なシリア砂漠をばく進、ときおり車がすれ違うだけの人気のない道路が続きいつまでこんな砂漠を走るのだろうかと不気味さを感じました、遠くにパルミラ遺跡のライトアップが目に飛び込んだ時は興奮しました、目的地のホテルに到着したのは21:20分でした。21日はパルミラ遺跡を観光、いまだに残る列柱と崩れた石材からその規模の大きさに驚かされました。
 

パルミラ遺跡
パルミラは紀元前1世紀から隊商の楽園として栄え関税による莫大な利益を得ていた、砂漠の真ん中にあるナツメヤシを意味するパルミラはキャラバンをもてなす建物や設備が造られていたので隊商の楽園と呼ばれる様になった。なかでも3世紀、ゼノビア女王の時代に全盛期を迎えたが、272年、ローマのアウレリアヌス帝との戦いに敗れ、街は破壊されてしまった。
 
 
パルミラ遺跡群(clickでパノラマ写真
世界遺産だが何も囲いがなく開放的なのが不思議に思える。
パルミラの遺跡は都市遺跡、墓の谷アラブ城の3群があり、メインは都市遺跡で主に1世紀に造られた約2km×1kmで囲まれた遺跡群だ。中心はベル神殿で、そこから1.3kmにわたって列柱大通り、浴場、バール・シャミン神殿、ナボー神殿、アラート神殿、ローマの円形劇場、アゴラ(市)、四面門、北部の居住地跡等がある。二つ目は墓の谷、都市遺跡の西に位置しエラベルの塔墓、3兄弟の墓の谷等がある。三つ目がパルミラ全体を見おろす丘の上にある17世紀築かれたアラブ城砦である。
 
 
 
 
記念門(凱旋門)
これより1.3kmの列柱が始まる
 
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現在の姿
「イスラム国(IS)」によって破壊されたパルミラの凱旋門。
 
 
 
 
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豪華で精緻な装飾が施されており、カシ・ナツメヤシ・アカンサス・ブドウ・テンナンショウ
の唐草模様などがモチーフに使われている
 
 
 
 
   
列柱の梁には樋があり権力の象徴であるライオン像の彫られている。
ライオンの口は雨水を流すために開いている。
 
 
 
 
 
 
 
 

列柱通り
                              
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
列柱通りはキャラバンをもてなす建物や設備を
 
長さ1.3kmのアプローチには全盛期には750本ほどあったといわれる列柱群。現在は写真のような
コリント式を中心に約150本の柱が残っている高さ10mの柱の真ん中にある出っ張った台座には、
町の著名人の彫像が並べられていました、ラクダの上から見やすい高さに台座が設けらてました。
 
当時の列柱の彫像の様子
 
 
 
 
浴場跡から見た列柱通りと四面門 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
四面門側から見た列柱と円形劇場
 
                     
 
 

ナボ神殿
 
 
ナボ神殿
記念門の西側にある。ナボはメソポタミアの神で神殿は、紀元後1〜2世紀にかけて造られたが、建設にあたっては、墓の谷で最も美しい塔墓を建てたエラベール家が多額の寄付をしたとの事。周りを壁に囲まれ、境内に中央神殿を置くシリア式の神殿で、ドーリア式柱頭のついた柱廊がある。
 
ナポ神殿
 
 
 
 

大浴場
「記念門」から100mほどの右手に「浴場」がある。これは「ゼノビアの浴場」または「ディオクレティアヌスの浴場」と呼ばれている。シリア最後の総督ソッシアヌス・ヒエラクレスの援助によって292年から303年の間に完成したもの。4本の美しいエジプト産花崗岩でできた円柱が並んでいるが、これは横85m、縦51mの建物の入り口だ。冷水浴室と微温浴室、温浴室など、典型的なローマ時代の浴場設備で更衣室やトイレもあった。
 
 
浴場建物の入り口 エジプト産花崗岩でできた円柱が並んでいる。砂漠をどのように運ばれたのか、興味深い。
 
 
大浴場(冷水浴場)
 
 
 
   
左はトイレ 右はタイル跡
 
下の空洞に湯を通しヒータ・・どういうものだろうか。
 
 
 
 
左は泉の跡、 右は貯水槽
 
 
  
釜と後方は浴場
 
 
 
 
 

円形劇場
 
 
ローマ様式の円形劇場、48mの幅があり2000人を収容した
 
 
 
 
こぶりの劇場で修復されて完全な形になっている
 
 
 
 
円形劇場から見た4面門とアラブ城
 
 
 
 
左側がは円形劇場から見た記念門、ベル神殿
 
 
 
 

4面門
 
 
居住地区と神殿地区を分ける十字路に立つ四面門。
台座には彫像が施されていたが残っていない。
 
 
 
 

アゴラ
 
 
大広場アゴラは、市場や集会でにぎわった場所。
 
 
 
水飲み場
 
 
 
 
大広場アゴラ遠くに見えるベル神殿
 
 
 

アラブ城
 
 
列柱通りの突き当たりは葬祭殿、丘の上アラブ城
 
 
 
 
アラブ城のズームアップ
17世紀十字軍と対峙した時代に造られた
 
 
 

水道管
 
 
   
水道管、左は内部の土砂の掃除用の穴
 
 
水道管跡
 
 
 

バール・シャミン神殿
 
 
     
バール・シャミン神殿は異国から来た商人のために神殿でギリシャの神を祀っていた。
 
 
 
 

ベル神殿
 
記念門とベル神殿の間を道路が縦断している、バイクの少年が手を振っている。遺跡には何ら
囲いもなく開放的なのが不思議に思えた、もう少し大事にして欲しいものです。なおベル神殿だけ有料。
 
 
 
ベル神殿 (正面が本殿で両側は列柱)
この神殿は、大地の神ベル、太陽の神ヤルヒボール、月の神アグリボールの3神を祀っている
東西210m、南北205mのほぼ正方形で、壁の高さは11mあったという
 
 
 
本殿
 
 
 
 
本殿内
 
 
 
 
祭壇
天井は丸くえぐられ、惑星七神の胸像が刻まれその周囲には黄道帯の十二宮図が画かれていたという
 
 
 
本殿入り口のレリーフ(梁が落下したもの)
卵形は女性を示し繁栄のシンボル
 
 
 
本殿入り口のレリーフ
 
 
 
 
ベル神殿の裏側
8本の円柱が並びその上には山形のデザインが見られのが特徴
 
 
 
中庭の生け贄の通路 
 
 
 
 
 
犠牲祭壇や動物の血を流す穴。
ガイドさんが神に捧げられた乙女の首を切るの演技して見せた、流された血が真下の十字の穴を落ちて地下水路を外壁のほうに下っていった由.パルミラではメソポタミア由来の春秋の雨季の始まりと収穫を祝う儀式がこの神殿で催された.生贄は家畜らしい。
 
 
 
 
壁の穴は固定用の金属のくさびが有ったが、今は無くなっている、オスマントルコの仕業とか
右は石材を固定する金属製のくさび、唯一残っている部分
 
 
 
   
ベル神殿内の倒れた列柱材
左はオスマントルコが見張り台として積み上げたもの。
 
 
 

エラベール家の塔墓
 
 
エラベル家の塔墓
パルミラの西方の墓の谷にあり地上五階建の塔墓で狭い階段を上まで上れる。壁の側面が角柱で仕切られ
立体的に一族および召使いを安置。まるで衣装ケースを積み上げたが如く安置していた。
エラベル家はパルミラの有力者であった
 
 
 
天井にはフレスコの肖像画
 
  
左は塔の階下 右は塔の上階で懐中電灯が必要
 
 
 
 
ラクダの親子、前脚のロープで縛り逃げないようにしている
 
 
 

ボルハとボルバの墓
 
ボルハとボルバの墓(地下墳墓 )
奈良のパルミラ遺跡発掘調査団が発掘した墓、一族が埋葬された、美しい内装の墓
 
 
 
主室の内部には、地下宮殿と称されるほど華麗な植物文様と、「列柱路」風に飾られた付け柱などの装飾が施されている。主室の奥にはこの墓の主を埋葬した石棺(写真 奥)が安置されている。この石棺は当時のパルミラ人は墓を「永遠の家」とよんでおり墓の中の一家団らんの風景を表現している、主が半身を起こし立てた右ひざに右手を置いて左手に杯を持ち足元に子供の立像を従えた家族饗宴の場面である。そして遺体は、墓室の壁面 に施された棺棚に埋葬されてい。他にも「3兄弟の墓」がある、造りは似ているが撮影が禁じられている。

パルミラ遺跡発掘調査団とはシルクロード学研究センターによる(1990年から2000年)の調査で樋口隆康(現シルクロード学研究センター所長)を団長としたシリア・パルミラ遺跡発掘調査団が編成され、地中レーダーによって発見された
 
 
 
 
 

パルミラのライトアップ
 
記念門と列柱通りライトアップ
 
 
 
 
記念門のライトアップ
パルミラ到着日の21時頃バスの車窓から撮影
 
 
 

シリアのコイン
10シリアポンドにはパルミラの記念門の内側から見た構図が刻まれている
(23円相当)
 
 
 

パルミラの街からの眺望
 
ホテル(*)のレストランから見たパルミラ遺跡
ナツメヤシの林の奥が遺跡
(*)サンズホテル パルミラ(SANDS HOTEl PALMYRA)
 
 
 
ホテルのレストランから見たパルミラ遺跡とアラブ城
 
 
 
 
ホテルのレストランから見たパルミラ遺跡
 
 
 
 
サンズホテル パルミラ(SANDS HOTEl PALMYRA)
部屋は古く質素
 
 
 
 
ナツメヤシの林、パルミラの名の由来の証
 
ナツメヤシの実
干した実は非常に甘いが砂糖は一切使っていない、お土産に重宝。
 
 
 

パルミラ博物館
 
 
 
 
パルミラ博物館
街の中心にあり遺跡から発掘された出土品などが展示されている。
 
 
 
ライオン像、アラート神殿の近くで発見された断片から復元されたもの。
 
 
 
 
  
左は顔が取れた彫像                      
 
 
 
 

パルミラの昼食
 
給仕が熱々の羊、牛、鶏の肉をほぐして皿に盛りつける、これをご飯やアラビアパンのおかずとして食べる。
 
 
 
 

バス
 
このバスでシリア内を700kmを移動、故障もなく快調に走った。
 
 
 
 

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