リトアニアの旅景 Lithuania
バルト3国
2006.5.29からバルト3国とロシアへ行きました、観光はロシアを主体に考えましたが日本のシンドラー杉原千畝氏の記念館を見学したかったのでバルト3国にも行って来ました。バルト3国の民族はリトアニアはポーランド系、ラトビアはドイツ系、エストニアはフィンランド系で国の生い立ち、言語、文化はそれぞれ異なっていますがバルト3国としてまとめて扱われるのは単に3国がバルト海に面してるだけでなくロシアとヨーロッパの境界に位置し独ソよる支配配等常に運命を共にしてきたことが大きな理由になっており波乱に満ちた歴史を歩んできた国々なのです。バルトとは「白い」と言う意味でバルト海の白いさざ波を表すとともに色んな色に染められながらも「白」を守り通した民族の純血の色ともいえます。
 
ヘルシンキ空港
往きは関空からヘルシンキ経由でリトアニアのヴィリニュス、帰りはモスクワからヘルシンキ経由で帰国というルートです。関空からフィンランド航空でヘルシンキまで僅か9時間30分で結んでいます、ヘルシンキは日本に最も近いヨーロッパです。そのヘルシンキ空港の様子を最初に紹介します。
 
 
 
 
フィンランド航空 MD−11ムーミン特別塗装機乗ったMD−11は第3エンジンが垂直尾翼に有るこの機種は経済性が悪く消え去る運命の希少機です。本機の生みの親は 「マクダネル・ダグラス社」なのですが、ボーイング社に吸収されてしまいました。
 
リトアニア航空  SAAB-2000ヘルシンキ空港からリトアニアまで80分の飛行です。50人乗りの小さなターボプロップ双発6枚羽プロペラ機です、この飛行機も僅か63機作られただけの希少機です、なお機内の飲み物は有料です。
 
 
 
 
ヘルシンキ空港
  
 
  
色んな種類のチーズが豊富に有りました
 
 
 
リトアニアの旅景 Lithuania   リトアニアの鉄道
人口370万人、面積は日本の17%で農業が盛んです、日本との関係では杉原千畝氏が1940年の領事代理時代にユダヤ人にビザを発給して6000人の命を救った輝かしい人道的行為として語りつがれる国です。 首都ヴィリニュスはバルト3国のうち唯一内陸寄りにある首都で2回の大戦中は隣国ポーランドに、大戦後 にはソ連に占領されましたが1991年に独立しリトアニアの首都として栄えています。
 
 
ヴィリニュス
 
着陸したヴィリニュス空港
  
リトアニアには山が無く、平野ばかりです。             まるで鉄道の駅の様な建屋です
 
 
 
 
杉原千畝の記念碑
 
 同上
ヴィリニュス市の河畔にある記念碑には 「早稲田大学の校友として世界に誇るべき氏の功績を称えて碑を建立すると共に、リトアニア共和国と学術交流による友好関係がさらに深まり花開くことを祈念して桜の木を植樹するものである。2001年10月2日早稲田大学」 とあります。氏の旧領事館はここから100KM離れたカウナスにありますが敢えて首都に祈念碑を建立したのは誇るべき功績ゆえだからでしょう。
 
 
 
 
聖ペテロパウロ教会           な漆喰の彫刻で装飾されています
 
 
ヴィリニュスを代表する典型的なバロック様式の建築で、その内部はかって見たことが無いほど明るいです
 
彫刻は差し込む光を計算しつくした見事な物ばかりです
 
 
 
大聖堂
ヴィリニュスのカテドラル広場に13世紀に建立された最初のキリスト教会で外壁の彫刻はソ連時代に破壊され1990年まで40年間閉鎖されたままでした。修復された内部は宗教画がふんだんにありました。 その横の鐘楼は53mあり土台部部分は城壁の一部です、鐘楼の側に奇跡と書かれた敷石があり願い事を唱えて回ると願いが叶うと伝えられています。
 
 
 
 奇跡と書かれた敷石
 
 
 
ヴィリニュス大学周辺
教会が沢山あり尖塔の十字架はロシア正教の独特の凝った装飾が施されています
 
 
 
十字架は凝った装飾が施されています
 
 
 
聖アンナ教会
 
様々な形状した33種類の煉瓦から出来た、リトアニア唯一のゴシック様式の教会で
その美しさはナポレオンはこの教会をフランスに持ち帰りたいと言った程です
 
 
ツェペリーナ
ツェペリナイ 
はその形状が飛行船のツェペリンに似ていることからこの名が付いたもので
ジャガイモの餅の中にソーセージが入っています、2個食べれば満腹します。
 
 
 
 
夜明けの門                                        
「夜明けの門」又は「曙の門」と言われ14世紀に首都は城壁で囲まれ10個の城門があったがその内の現存する唯一の門です上部を飾るルネッサンス様式の装飾は16世紀に付けられリトアニアの紋章である白い騎馬像が施されています。
 
 
 
 
 
聖母マリアのイコン
 
  
夜明けの門の裏側の2階は礼拝所になっており、狭い場所に多くの人達が祭壇中央に飾られている聖母マリアのイコン(右写真)に向かって祈りを捧げていました。この聖母は奇跡を起こすと信じられ深い信仰を集めていて周囲は寄進物で埋めつくされています。
 
 
 
 
カウナス
ヴィリニュスから100km西にある第2の都市カウナスは文化都市で日本のシンドラー杉原千畝氏ゆかりの地です。
カウナス城                                    聖ゲオルギ教会
  
ドイツ騎士団の侵入を防ぐために作られたがナムネス川の氾濫により、
今残っているのは修復された塔と城壁の一部、掘り割りの名残りのみとなっています。
 
旧市庁舎                                ヴィタウタス教会
 
大変優雅な建物です今は結婚登記所として使われています          ナムネス川の畔にあります
 
ナムネス川                       雷神ベルクーナスの家
 
雷神ペリクナスを祀る寺院があったが現在は図書館になっています
大聖堂の通りの街並みは静かで美しいく石畳がマッチしています
この通りの土産物店では特産の亜麻製品が人気でした
 
 
 
杉原記念館を見学
ここは、旧日本領事館で6000人ものユダヤ人の命を救った杉原千畝氏の記録や写真、執務室などを展示している施設です。日本政府の方針に背き、助けを求めて来たユダヤ人達に日本の通過ビザを発給し続けた杉原氏の人道的行為を讃え杉原祈念館として保存されています、そんな執務を続けた領事館に立入ることが出来て大変感激すると共に日本人として誇りに感じました。
 
     
 
      
杉浦千畝と幸子夫人                               イスラエルのヤド・パシュエム賞受賞時の写真
 
 
杉原千畝とは
杉原千畝は1939年にリトアニアの日本領事代理になる。1940年夏ナチス占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた多くのユダヤ人が各国の領事館、大使館にビザ取得のため奔走していたがソ連がリトアニアを併合し各国に対して領事館、大使館の閉鎖を要求した、一方業務を続けていた日本領事館にユダヤ人が通過ビザを求めて殺到した。杉原は本国に伺いを立てたが発給は許可されなかった。こうした政府の指示に背いて1940年7月の末から杉原はビザの発給を決断し一家がベルリンに退去する9月初旬までの50日間ビザを書き続け6000人のユダヤ人の国外脱出を助けた。国外脱出を果たしたユダヤ人はシベリア鉄道でウラジオストック経由して敦賀に上陸しユダヤ系コミニティのある神戸にたどり着きその内1000人はアメリカやパレスチナに向かい、残りは上海に送還されユダヤ系コミニティで日本が降伏する1945年まで過ごした。杉原は戦後ソ連の収容所から帰国した後1947年外務省を辞職に追い込まれた。その後商社等に勤め1985年にはイスラエルからヤド・パシュエム賞「諸国民の中の正義の人賞」を受賞。1986年7月31日鎌倉市にて永眠(享年86才)す。1991年10月名誉が回復された
領事館室内           当時使っていたタイプライタ         ビザを求めて詰めかけたユダヤ人
   
 
発給されたビザの1枚             当時使っていた執務机
 
 
●ベルリンに退去する際、動き出す汽車の窓から身を乗り出してビザを書き続けたカウナスの駅へリンク
 
 
 
    十字架の丘
田園の中にぽつりと小さな丘があり大小無数の十字架で埋め尽くされています、ソ連に対する蜂起の後処刑された人達を偲んで立てられたもので、ソ連時代は立ち入り禁止地域とされ何度も焼き払われたにも関わらずその都度新しい十字架が運び込まれて来ました、今でも流刑の犠牲者を偲び十字架が運び続けられています。
 
 
  
 
 
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