泰緬鉄道(ナムトック線)に乗車 撮影 2008.2.22
 
                            カンチャナブリ






 


バンコクから西へ約130km、ミャンマーとの国境に近い山間の入り口にカンチャナブリ県の中心地カンチャナブリ市がある。カンチャナブリは悲惨な戦争の舞台となった歴史を持つ一方、周辺には豊かな自然が残されている。バンコクからも近く、必見の場所です。カンチャナブリ市にはクウェー川鉄橋や戦争博物館、連合軍共同墓地等があり是非見ておきたい場所です。
 
 

クウェー川鉄橋
                             クウェー川駅側から見た鉄橋

映画「戦場に架ける橋」の舞台になった有名な橋。日本軍の名称は「メクロン永久橋」でした。この鉄橋を架ける前に資材運搬用の橋梁として木造橋を現在の鉄橋よりも100m下流の場所に架けら1942年12月には完成。次いで現在の鉄橋も1943年5月には完成した。泰緬鉄道は僅か15ヶ月という驚異的な早さで同年10月に開通したのである。鉄橋、木造橋は連合軍に空襲で何度も破壊された。鉄橋はその度に不通になったが木造橋は捕虜や労務者を動員してすぐに復旧し、鉄橋の代用を果たし、輸送ルートをかろうじて確保した。戦後になって、鉄橋はタイ国鉄の所有になり日本の戦後賠償で横河橋梁鰍ニ日本橋梁鰍ノよって修復された(中央の平行トラスト部分が)。一方木橋の方は、1946年に大雨による増水で姿を消した。この木造橋の残骸が「アートギャラリー&戦争博物館」に残されています。橋は徒歩で渡れるようになっており、途中に列車通過時の避難場所がある。ここから過ぎ行く列車を眺める観光客がたくさんいます。
 
 
 
 
 
 
 
 
     
鉄橋のたもとに爆弾のレプリカが立っています。橋の中央部が爆撃で破壊された部分で、修復後に平行トラスト構造になりました。
 
       

川岸の両側のアーチ型の部分は当時の橋です、観光客がひっきりなしに往来するためすれ違うのがやっとで一歩踏み外すと川に転落します。全長415mの橋を往復してきました。映画「戦場に架ける橋」とは全く違って戦時下に作られたとは思えない立派な橋です。あの映画は全くの創作で橋は英国人捕虜が設計した木造の橋ですが実際は立派な鉄橋で日本の土木技術を小馬鹿にしています、そして1番列車の通過時に爆破され列車が川に転落してしまう設定になっていましたが、とんでもない話しで爆破もされておらず実際の一番列車は戦後もタイ国鉄で活躍し現在は日本の有志の拠金で引き取られ靖国神社の遊就館に奉納されています。その1番列車はC5631号で、この詳細は後述の「タイから帰還したC56」をご覧下さい。他にもう1両帰国したのがC5644号で大井川鉄道で活躍しています。
 
 
 
 
   
対岸側から見上げた鉄橋                       対岸側から見みた線路と鉄橋
 
 
 
 
     
対岸のナムトク方向をみた線路で脇には歩行者のための退避場が設けられています
 
 
 
 
ナムトック線(旧泰緬鉄道)でタムカセ駅へ
 
 
クウェー川鉄橋駅
 
 
観光バスでやって来た大勢の観光客がクウェー川鉄橋駅で泰緬鉄道に乗車し、悲惨な歴史を振り返りながら、
車窓に広がる自然を堪能します。牽引する3-3軸配置のジーゼル機関車4133はフランスのアルストム社製
 
 
 
 
殆どの観光客が列車の窓からシャッターチャンスを逃すまいとカメラを構えています。
 
 
 
橋の途中の避難場所で過ぎ行く列車を眺める観光客が沢山います。
 
 
10両連結の列車は音を響かせながらゆっくりと砂糖きび畑の間を走行します、窓が全開なので
走行音がより一層響きます。悲惨な歴史を振り返りながら、車窓に広がる自然を堪能しました。
 
 
 
  
3等車の内部です、エアコンは無く扇風機が回っています、窓は全開でそんなに暑さは気になりませんでした。
 

ただし椅子は木製で長時間の乗車はきついです。車内でクッキーと水及び缶コーヒの無料サービスがあります、我々は旅行会社のパックで乗車したので、てっきり旅行会社の提供かと思っていたらタイ国鉄のサービスでした、どうもナムトク線はタイ国鉄のドル箱路線で特別運賃に値上げしたそうでその見返りのサービスだったのです、特別運賃に保険代も含まれてるとか。ちなみに始発のトンブリ駅からナムトクまでの距離210kmの運賃はわずか100バーツ(350円)です、値上げ以前はその1/2以下だからどちらにしても驚きの安さです。
 
 
 
 
      
これでも一応座席指定です、車掌は警官と間違うような厳つい服装をしていました。
 
      
車内に掲示されていた戦時中の写真です、空爆された橋や橋を通過する列車の様子、そして難所の岩山の切り通し。
 
手前が爆撃された「メクロン永久橋」(1943年5月には完成)でその後ろ側がこの鉄橋を架ける前の資材運搬用の木造橋(1942年12月には完成)。
 
 
 

アルヒル桟道橋

泰緬鉄道のハイライト、クウェー川に沿って岩壁すれすれに作られた全長約300mS字カーブの木造橋です。この橋にかかると列車は徒歩並みの速度に落とします。観光列車として乗客へのサービスではありません、安全上の問題で徐行していたのです。線路脇には監視小屋があり合図の旗を持った職員が待機していました。岩壁はダイナマイトで爆破したのだろうか?でこぼこしています。走行中はギシギシと橋脚がきしむ音がします。岩壁側の席は目の前に岩壁が迫り、川側の席はクウェーを見下ろせ、どちらの席も凄い景色で両方の景色を眺めるのが大変忙しいです。
 
 
 
   

木を組み合わせて断崖に張り付くように作られたアルヒル桟道橋は戦中の様子を伝えながら今でも使用されています。これらは第5,第9鉄道連隊が中心になって建設したものでその構造は鉄道兵架橋教範の応急橋によったもので迅速勝つ手近な資材が出来る工法で、尺角の柱をボルトとカスガイで結合させたものであった。拙速かつ省力を必然とする軍用鉄道にもかかわらずレベルの高いもので国外でも評価されており半世紀経ても使用 に耐えていることがこの証だろう。
 
 
 
   
 
 
 
 
   
木組の橋脚を不気味なきしみ音をたてながらゆっくりと渡ります
 
 
 
アルヒル桟道橋の車両のデッキや窓からカメラを構える客と眼下のクウェー川
 
 
 
車窓から後ろを眺めると大きなS字カーブの難所がよく見えす。
 
 
 
  
クウェー川に沿った岩壁は削り取ったままで車両すれすれの恐ろしい状態です、当時の突貫工事が様子がうかがえます
 
 
列車は珍しいコマーシャルが描かれた車両が接続されていました。
 
 
 
 
 
 
タムカセ駅ホームで下車
 
  
                                岸辺のレストラン
                         

終点のナムトックまで行く人は少なく多くの客はタムカセ駅で下車します、我々はクウェー川の岸辺のレストランで昼食を取りました緑が美しく風はさわやかでビールが美味しく感じました、。帰りはバンコクまで観光バスです、道路が整備されていて列車より遙かに速いです。
 
 
         
 
 
 
 

カンチャナブリー
 
JEATH戦争博物館の入り口
   

第2次世界大戦中に実際使われていた捕虜収容所の小屋を再現し泰緬鉄道建設に関する資料や連合国軍捕虜による絵画作品、日本軍が使っていた銃や剣がを展示しています。JEATHとは鉄道建設に関連した国・Japan、England、America,Australia、Thailand、Holland(オランダ)の頭文字をったものですがDEATHを置き換えた言葉でもあります。
 
 
竹で作られた捕虜収容所の小屋
 
 
 
 
 
連合軍共同墓地
整然並ぶ墓碑にはこの地で亡くなった連合国の兵士6982名が眠っています献花に来る人が多い様で良く整備されています。
 
 
 
 
 
 
カンチャナブリ保存車両
 
クエー川鉄橋駅の裏(バンコクよりのホームの端)公園に戦時中の車両が展示されています。
 
 

719号は尖端の赤いスカートと連結器、右の写真の平らになった運転室の屋根がタイの特長を示して
います。赤いスカートはカウキャチャと呼ばれるもので戦後にタイ国鉄が取り付けたもの。屋根が平らなのは車両限界高さ制限が日本より20cm低いため切り取ったもので煙突も短くしています。また炭水車の上に柵がありますが薪を多く積むため嵩上げ用の柵です。このほかゲージ幅も改造されています。

泰緬鉄道へは、メーターゲージに改造された90両のC56型蒸気機関車が送られ、戦後もタイ国鉄や周辺国で働いてきました。1979年に、このうち2両のC56が帰国し、C5631は泰緬鉄道開通式に使われた機関車で靖国神社に静態保存され、もう一両のC5644は、大井川鉄道で現役で活躍していますが煙突やゲージ幅、連結器は日本仕様に改造されています。

 
 
 
   
タイ仕様については「C56のタイ仕様改造」をご覧下さい。
 
 
ノースブリティッシュ社製の2C、804号機。炭水車の文字はタイ国鉄と書かれています。
 
 
100式鉄道牽引車
トラックを改造したレールカーは資材の輸送車として使われ最盛期には、一日1000トンも輸送したという。
 
 
 
靖国神社に展示されているC5631の説明

昭和17年6月ビルマ・インド侵攻作戦の陸上補給を目的にタイのノンブラッドからビルマのダンビザヤを最短距離415km
の区間で鉄道建設を開始した。工事は日本の鉄道第五、第九連隊を中心に連合軍捕虜や現地人約17万人が従事し15ヶ月という驚異的な早さで昭和18年10月に開通した、この区間はかってイギリス軍が建設を構想したが断念したもので険しい地形と過酷な熱帯気候等の悪条件のもと敷設は困難を極めた。(説明原文)
 
 
 

 
HOME
 

 
TOP(タイの鉄道へ)
 

 
TOP(タイの旅景写真)
 

 
タイから帰還したC56
 

 
MENU(海外鉄道写真へ)